何もない世界

日々感じたことを書いています。

「滅亡から読み解く日本史」読みました。

 

例えば歴史小説とか読んでいると、誰々は切腹したとか、何十人処刑されたとか、斬首されたとかよく出てきます。「切腹」とか「処刑」とか、文字だと一言で片づけられてしまう。とても淡々としている。当事者からしたら、たまったものではないかもしれない。そこに在ったドラマも、苦しみも、死も。たった一言の文字で片づけられてしまう。でもそれは文字でしか残すことが出来ない。

そして切腹とか処刑のさらに上をいく「滅亡」という言葉。

「○○氏滅亡」とか教科書とかでよく見かけても、ふーん。て感じでスルーしてましたが、改めて考えると「滅亡」ってすごい言葉だなと思います。絶対に一言では片づけられない。でも決して一族全員が抹殺されるわけではなく、歴史の表舞台から姿を消すことを言いますが、そこには、裏切り、陰謀、複雑な人間ドラマがあったと思います。

本著は、古くは「大化の改新」で知られる蘇我氏から、戦国時代の終わりを告げた豊臣氏の滅亡まで、栄華を極めた様々な一族がなぜ滅んだのかを解説しています。

滅亡の裏に隠れていたドラマや、今まで知らなかった一族も出てきました。

当事者たちは一族の興亡が懸かっていて死に物狂いで戦ったとしても、滅亡して時が経ってしまえば、人々は勇気を称え、または憐み、滅亡は美化されて、やっぱり教科書に載ってるような淡々とした「滅亡」に落ち着くのかなと思いました。f:id:s5im24is7:20180304141220j:plain

日本は何処に行っても同じような景色

電車に乗ってゆらゆらと旅に出たい。知らない土地を散策したい。非日常を感じたい。と思って旅行に行っても日本は何処に行っても同じような景色が広がる。チェーン店だらけ。コンビニ、飲食店、アパレルショップなどの見慣れた看板。派手な色彩。特に飲食店。企業方針による立地、外観、マニュアルと一体化したようなつまらない人間。とりあえずシフトが終わるまで卒なく仕事をこなせればいいやという態度の店員。こんなに全国の隅々まで店を出して町の景観を損なっている。金が儲かればそれでいいのか。確かに便利で安くてそこそこ美味しいからお客さんもたくさん来る。でも本当にこれでいいのか。

そんな中で個人経営の店の経営が成り立たなくなって潰れていく。少し金額は高いけど、本当に料理にこだわって、自分の料理を食べて欲しいと頑張っている。そしてそういう店はオリジナリティがあって面白い。もしかしたらとてつもなく不味いかもしれないけど、それも面白い。だからそんな店を残していければ、もっと面白いのになあと、思ったり思わなかったり。

「翔ぶが如く」全10巻 司馬遼太郎

例えば、自分が生まれる何年か前に戦争が起こって、人がたくさん死んだとしても、それを教わらなければ、自分は知る由もない。仮に教わったとしても、自分が本当に見て、体験した訳ではないから、嘘か本当か分からない。もしかしたら、自分が生まれる前に起こったとされていることが全部嘘かもしれない。

 

日本で一番最近起こった内戦は、明治10年(1877)の西南戦争。今回読んだ「翔ぶが如く」も明治政権の樹立から西南戦争までの流れが書かれています。

去年の9月に読み始めて、約4か月かかってようやく読み終わりました。長かった。

これで司馬遼太郎の三大長編「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」「坂の上の雲」を全部読みました。時代の流れからすると読む順番が前後してますが、明治維新から西南戦争の時代は、幕末や近代よりもなんとなく地味なイメージがあったので、なかなか読む気になりませんでした。ですが読み終えてみると、てっきり明治が始まるとともに幕末の革命は終了と思っていましたが、全然そんなことはなく、むしろ西南戦争西郷隆盛の破滅、翌年の大久保利通の暗殺までが幕末だと思いました。

この西郷隆盛と言う人間は、もともと幕府を倒そうとしていたテロリストであり、倒幕を成功させ明治政権の樹立に貢献しておきながら、その新政府に反乱を起こして破滅してしまった。政府に対して反乱を起こした逆賊でありながら、なぜか上野に銅像が建てられたり英雄視されている。西郷は革命後の国家運営をどうしていくかと言う考えを持っていなかったらしい。そう考えると、革命家よりテロリストと言った方がしっくりくると思いました。

 

革命という言葉は不思議な力を持っている気がします。

チェ・ゲバラもそうかもしれないですが、革命家は、もしかしたら革命に憑りつかれているのかもしれません。国を憂い、政府と戦い、貧しい人たちを助ける。実はそれ自体がエゴの塊で、革命を起こすことに快感を感じているのかもしれません。ゲバラキューバで革命に成功した後に、革命の起こせそうな国を探してまで革命を求めていた。西郷も日本で革命に成功すると革命を韓国に輸出しようとして征韓論を唱えて、西南戦争の引き金になった。

 

小説の中で、西郷の睾丸が巨大だったという話が何度か出てきてとても印象的でした。どうやら島流しにされたときに病気にかかったことが原因らしいですが、印象に残りすぎて、西郷=睾丸巨大のイメージが定着してしまいました。

あと印象的だったのは、西南戦争より数年前に江藤新平が明治政府に対して反乱を起こしたとき(佐賀の乱)首魁の江藤新平は捕らえられ梟首され、首の写真を撮られてばらまかれたこと。明治政府といっても内実は大久保利通独裁政権であり、天皇の威を借りる事によって、あたかも太政官政権が揺るぎない巨大なものと見せかけていた所に大久保の凄みを感じました。

 

すべてはフィクション「サピエンス全史」上巻

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今世界的に大ヒットしてるらしい「サピエンス全史」を読みました。

 

本書は、アフリカの片隅で暮らしていた取るに足らない動物「ホモ・サピエンス」が何故、現在の様に世界を支配できたのかを、イスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが解説した本です。

そもそも人類の誕生が600万年前、その後様々な人類種が進化していき、20万年前にホモ・サピエンスに進化します。

そして7万年前に認知革命が起こり、ホモ・サピエンスの歴史が始まります。

認知革命がなぜ起こったのかはよく分かりませんが、認知革命によって神話や宗教などの虚構を言語によって伝えることが出来るようになりました。

しかし、なぜ認知革命によってホモ・サピエンスが他の動物を差し置いて生物の頂点を駆け上がっていくことが出来たのか。

例えば、アリやミツバチなども何かしらの言語を持っており、意思を疎通させる方法を知っています。音声言語を使うサルもいて、鳴き声によって「気をつけろ!ワシだ!」「気をつけろ!ライオンだ!」と言う意味であることを突き止めた学者もいると言います。

我々が使っている言語は、限られた音で無数に文章を作ることが出来、周囲の状況などを細かく伝えることが出来るので、とても優れていると言えますが、それ以上にホモ・サピエンス最大の特徴で、世界を支配した重大な理由は、先程の虚構を言語によって伝えることが出来る事。つまり、実体のない想像上のもの(国家や貨幣や法律なども)を認知し、共有することが出来る事です。

それがなぜ重大なのかと言うと、例えば、チンパンジーに「今俺にバナナを譲ってくれれば、お前は死後にチンパンジーの天国でいくらでもバナナを食べられる」と請け負っても譲ってもらえない。しかし、逆に人間だったらこれと似たような状況で、もしかしたら命を捨てることもあるかもしれない。

この違いによってホモ・サピエンスは一度も会ったことのない他人と協働することが出来る。人間以外のチンパンジーの世界も社会があり、その中で協働することも可能ですが、全員顔見知りの必要があり、せいぜい150人が限界だそうです。それに引き換えホモ・サピエンスは貨幣と言う紙切れを持って、見ず知らずの人と食べ物を交換することが出来ます。これは貨幣の価値と言う虚構が信じられていれば、世界中の人と取引が可能になります。貨幣ほど普遍性があり、すべての人を繋ぐフィクションは無いと言います。

 

まだ上巻の最初の方ですが、まさに目から鱗が落ちるほど新しい考え方や発見があってとても面白いです。

 

 

 

 

1カ月で会社を辞めました

もうすぐ25歳になります。漠然と「そろそろ就職しないとなー」と思ってましたが、特にやりたい事もない。

「本当に自分のやりたい事を仕事にしてる奴なんておらん」って昔言われたのを思い出した。本当にそうだろうか。

まあいつまでも自分のヤリタイコトガーとか言っててもしょうがない。興味のない仕事でも1回やってみようか。と思い、営業職に絞って何社か受けてみました。

2社目に面接を受けた所が、とても話をよく聞いてくれて、ここ会社は良い会社だなー、これは採用されたわとか思っていたら、案の定採用され、二つ返事で承諾したのでした。

そんなこんなで2社目で決まって、少し拍子抜けしつつも、ほっとしたり。実際は営業ではなく「営業事務」だったけど、その時はあまり深く考えず。そして入社しました。

 

実際に働いてみて思った事

・思った以上に事務要素が強い。

・1日中ほとんど座りっぱなし。

・みんなで密集して座ってるから息が詰まりそうになる。

・面白い人がいない

 

事務作業をしてると、「本当にこの仕事俺がやる必要あるのか?」とか「そもそもこの会社って必要なのか?」とか考えてしまってモチベーション上がらない。

そんなんだから会議で話し合いとか、全部バカバカしくなる。なんでそんなどうでもいい事話し合ってんのか。

毎日同じ時間に出勤して、みんなで机をくっつけ合ってモニターを見てカタカタ作業している。これが一番気持ち悪い。こんなの家でやればいいのに、なんでわざわざ同じ時間に、同じ空間で、みんなと同じ作業をしないといけないのか。

そしてなにより面白い人がいない。これはもうしょうがない。仕事の愚痴ばかり言って、だったら辞めればいい。

仕事なんてどんな仕事でも同じとか言うけど、多分他の会社でも似たようなものなんだろうな、と思う。それでも安定した収入の為に仕方なくって言うけど、土日休みがあるとはいえ、平日は仕事が終わったらご飯食べて眠るぐらい。自分の時間もない。仕事で頭を使い果たして本を読む気力もない。

それでも朝同じ時間に起きて、満員電車に乗って、謎の共同作業スペースに行く。

お金の為に!時間を犠牲にして!せめて仕事が面白かったらいいのに、、、

とか毎日考えていた。

 

そして丁度入社してから1カ月が経ったある日。

一回ダメ元で部署異動出来るか言ってみようかなと思って、上司に相談したらまさかの即日退職する事になった。

僕としては、この仕事は正直つまらない。でも部署異動(自社の工場)に異動すればこの会社を続けていける可能性がある。でも決して自社の工場で働きたいからという理由ではなく、現在の仕事が嫌だから異動したいだけだというネガティブな理由です。

そんな感じの事をアホみたいに正直に言ったら、だったらお互いの事を考えたらここでスパッと辞めるのが一番いいんじゃない?と言われたので、そのまま辞めることに。

 

これが丁度1カ月前の話。これから何処へ行くのか。

 

 

自分と世界のバランス

今世界の人口が70憶人くらいいて、世界中の人全員に会う事は出来ない。実際に一生のうちに出会う人は1000人とか2000人ぐらい?

そんな中で、本当に分かり合える人とか、所謂「運命の人」に出会うのはほとんど不可能だと思う。

今の時代、一生結婚しないという生き方が許容されてきているけど、それでも多くの人が結婚する。きっとその人達は、この人こそが運命の人だと思って結婚しているのかもしれないけど、運命の人だと思って結婚しても、離婚する人もたくさんいる。

そりゃそうだと思う。だって結婚する前に、多い人でもせいぜい10人ぐらいしか付き合わない。それでも70憶分の10人。もはや途方もない。これだったら10人付き合おうが、100人付き合おうが大差はないと思う。しかも都合よく自分の周りにいるわけない。そんな中でも「運命の人」が本当に存在するんだとしたら、出会えないのが普通だと思う。

今でこそ自由に相手を決められるけど、昔の日本は親同士で勝手に結婚相手を決めるとか、身分の違いとか、それこそ戦国時代とかの政略結婚とかあった。今の時代でも自由に結婚相手を決められない国があるかもしれない。きっと結婚するときに初めて顔を見て、「うわあブサイク」とか「生理的に無理」っていうことも勿論あったと思う。でも自由に相手を決められる現代より離婚率が低かった。今より簡単に離婚できなかった事も理由だと思うけども、現代人は人を選り好みしすぎて、自分のタイプにそぐわなかったら別れるとか、離婚するとか。やっぱり70億分の100人も、70億分の1人も大差ない。それとも昔は「運命の人」なんて概念が存在しなかったのか。

 

人間同士、本当に分かり合えるのは不可能だと思う。もし本当に分かり合える人が存在するとしても、その人と出会う確率は途方もない確率で、もしかしたら異国の人で、言葉も人種も違うけども、何年も根気よくコミュニケーションをとっていたら分かり合えた、なんてこともあるのかもしれない。でも普通言葉も通じない外国人と時間をかけて分かり合おうとは思わない。きっとどこかですれ違って、一生出会うことはないだろう。

 

分かり合う事は不可能。でも人と繋がっていたい。

シンプルに考えると、世界には男と女がいる、だったら身近にいる男1人と女1人を選んで、その2人を世界中のすべての人間と考えたらいい。彼らは世界中にいる男女の代表者で、彼らの考えが世界中の人間の考えだとしたら、世界中の人間の考えが分かる。

 

今の僕がまさにそうだ。今友達と呼べるのは2人で、男1人と女1人。それぞれ年に2、3回会うくらいで、彼ら以外の人とは深く関係を持たない。

イメージは、丸い地球の上に僕が立っている。僕の友達2人が地球の半々にいて、僕の足の裏と繋がっている。僕の考えとか自我と呼ばれる部分が、宇宙空間にどんどん伸びて行きそうになるのを2人が押さえている。世界中の人間は地球に溶けていて、マーブル模様みたいに混沌と渦巻いている。時々マグマみたいにボコボコと頭を出す人がいる。あまり友達2人と頻繁に会いすぎると、足の裏からどんどん地球に溶けていく。男1人に偏りすぎると、片足だけ沈みすぎて、自分と世界のバランスが悪くなって頭から倒れてしまう。そして人間の混沌の中に混ざってしまう。でも世界の繋がりを断ってしまえば宇宙空間に投げ出されて、2度と戻ってこれない。

 

 

そんな今日は1週間ぶりに友達に会う。行ってきます。

 

 

 

戦いの後は何も残らない。長曾我部元親の生涯「夏草の賦」司馬遼太郎著

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最近、司馬遼太郎の作品を片っ端から読み漁っていますが、その中でも個人的に好きな「夏草の賦」を紹介します。

 

四国土佐の片田舎から天下を目指した長曾我部元親。権謀術数をめぐらせ四国の覇者になりますが、豊臣秀吉によって土佐一国に戻されてしまう。

20年もの間戦い続け、多くの犠牲を払い、やっと手に入れた領地も秀吉によって取られ、今までの野望が潰えてしまう。夢や志を失った元親は急激に老いてきます。

 

そして長男信親が戸次川の戦いで戦死し、元親はいよいよ世の中を捨てたような、なにもかもどうでもいいような感じになります。

 

そして秀吉の死後、関ケ原の戦いの前年、長曾我部元親は61歳でこの世を去ります。跡を継いだ四男の盛親は、父親から今後の身の振り方を一切教えられなかった為に、成り行きで石田三成側に付き、敗亡し、土佐を取り上げられてしまう。

そして、後の大坂の陣で敗れ、盛親は斬首され長曾我部家は断絶、歴史から消えることになる。

 

 

この小説を読んだ後は、青々とした夏草が生い茂っていた景色が、いつの間にか荒廃した土地に変わり、蝉の抜け殻がからからと風に吹かれて転がっていくような、夢から醒めた後の虚しさの中にも、少しだけの清々しさが残るような、そんな小説でした。